【東日本大震災15年対談】岡本翔馬×佐藤一男「15年目の現在地—桜とともに歩んだ時間」


「2011年11月6日に植えられた最初の桜。陸前高田市高田町浄土寺のカワヅザクラ(2025年4月9日)」


2011年3月11日。

津波が街をのみ込んだその到達地点に、一本ずつ桜を植えていく——。

私たちは悔しいんです。

その静かな決意から始まった「桜ライン311」は、15年の歩みを重ねてきました。
陸前高田市内の津波の最大到達地点170kmに10m間隔で桜を植えて後世に伝えていく。
これまでに2,420本の桜を植樹し、育て、守り続けてきました。

震災から15年にあたり
設立時副代表理事であり現在はフルタイムスタッフとして現場を支える佐藤一男がインタビュアーとなり、同じく設立時副代表理事から2013年代表理事となった岡本翔馬に、この15年を振り返ってもらいました。(対談日時 2026年2月24日)


「当初の設立においてで中心的な役割を果たした佐藤(写真左)と現在の代表理事である岡本(写真右)(2026年2月)」

岡本翔馬:(以下 翔馬)
改めて15年ということで対談です。

佐藤一男:(以下 一男)
はい、長い付き合いになりました。

翔馬:
実は2人でのこういう対談は初めてですね。緊張します(笑


□桜ライン311が桜に込める思いとは


「津波が街を襲う瞬間に撮られた1枚。市役所を中心とした市街地が津波により壊滅的被害を受けた(2011年3月11日)」

一男:
まずは改めて、桜ライン311をご存知ない方に説明すると、私たちは東日本大震災の津波到達点に桜を植えています。なぜ桜だったのか、岡本代表はどう考えていますか。

翔馬:
僕らは東日本大震災の教訓をどう後世に伝えていくか、ということのための団体です。だから桜は後世に伝えていくための手段です。
元々は「石碑じゃないもので」という出発点でした。これまで災害を石碑で伝えてきた歴史があります。でも、悲しみだけで残すのではなく、より多くの人が覚えていたいと思えるものにしたい。未来性のある伝承活動にしたかった。

「大型のショッピングセンターマイヤ高田店も全壊。浸水域内はどこもこのような状況だった。(2011年4月)」

翔馬:
桜というものは、日本人にとってとても特別な花です。春になると、入学式とか卒業式とか、人生の節目に咲く花ですよね。
だからこそ、この震災の教訓を伝えていく時に、さすがに3月11日にはこの地域では咲かないんですけれども、春に咲くことで、「ここまで津波が来たんだ」ということを思い出してもらえる花なんじゃないか、という願いがあります。

その結果、桜を選んだことで、それができたのかなと思っています。
私たちのビジョンは、「災害で失われる悲しみを二度と繰り返さない未来をつくる」こと。そのメッセージを受け取ってくれる存在が、桜なんじゃないかと認識しています。

「2013年から市内小学校との植樹会を開始。25年秋には市内全校の小学校と植樹会を実施した。(2015年3月)」


□設立の背景や当時の状況


「震災から1年の植樹会にて。オレンジのジャケットは震災の時にも着用していた(2012年3月11日)」

一男:
東日本大震災が発生し、私も自宅を流され、職場も失いました。避難所生活の中で、支援者としての岡本翔馬さんと出会いました。
明日さえ見えない、来年も想像できない時間でした。
その中で多くの人に支えられて、少しずつ明日をイメージできるようになっていきました。
私は友人・知人を100人以上失いました。これを繰り返してはいけない。
私たちも、過去の被災経験者から「繰り返してほしくなかった」と言われてきた。その思いを次に伝えた
い。

次の災害で失われる命がなくなるように。まずは地元で、次の悲しみをなくしたい。
津波の到達ラインを百年先、千年先まで伝わるように何かしたいと思い、当時岡本代表と相談する時間を作っていただきました。
まだ「桜ライン311」という名前もない頃、集会所にみんなで集まりました。
私たちから声をかけられた時、どう思いましたか?

「支援活動をしながら桜ライン311としても活動していた。(2012年2月)」

翔馬:
最終的に僕と一男さんは設立時副代表理事になりましたが、僕は最初、役職を受けるつもりはありませんでした。
当時の陸前高田は、全国から支援団体が入っていて、NPO的な活動は外の人がやるもの、という雰囲気がありました。その中で、地元の人が「こういうことをやりたい」と声を上げた例は、琢見さん(前任代表:橋詰琢見)と一男さんが僕にとっては初めてだった。
「あ、やっと地元でやりたい人が出てきたんだ」と、本当に嬉しかったです。
だから、この二人を支える立場で入ることは、全然やぶさかじゃないなと思いました。むしろ、自分にできることがあるなら、ちゃんと力を尽くしたい、そんな気持ちでしたね。

「事務所は仮設住宅用集会所。設立メンバーで毎夜議論をして骨格が決まった。任意団体設立直前(2011年10月13日)」

翔馬:
あの頃は、本当に手探りでした。何が正解かもわからない。そもそも、これが本当に続いていくのかどうかも見えない。でも、それでもやるしかない、という空気がありました。琢見さんと一男さんの覚悟は、すごく伝わってきていたんです。地元で生きていく人たちが、自分たちの言葉で「これをやる」と決めた。その重みは、Uターンの僕には到底背負いきれないものだったと思います。だからこそ、せめて隣で支えたいと思った。

最初は、資金もない、人もいない、実績もない。本当にゼロからのスタートでした。集会所で話し合って、どうやって桜を植えるのか、どこに植えるのか、誰にお願いするのか、一つ一つ確認しながら進めていきました。

「植樹会の最終打ち合わせ。当時、広い会場は避難所だったので、お寺の講堂を間借りした。(2012年2月11日)」

翔馬:
正直に言えば、不安がなかったわけじゃないです。これが独りよがりにならないか、本当に地域に受け入れてもらえるのか。でも、地権者さんたちが「いいよ、ここに植えな」と言ってくれた時、「ああ、これは地元のプロジェクトなんだ」と実感しました。

震災から時間が経つにつれて、町の風景は少しずつ変わっていきました。でも、桜を植えるたびに、「ここまで津波が来た」という事実を、目に見える形で残していく。その作業は、鎮魂でありながら、未来への意思表示でもあったと思います。

「高田町浄土寺のカワヅザクラ。かつての市街地にはガレキの処理集積と処理プラントが並んでいた。(2013年4月19日)」

翔馬:
悲しみを刻むだけではなく、「もう繰り返さない」という約束を形にする。
そのための桜なんだと、活動を続ける中で、だんだん確信に変わっていきました。
15年という時間は、決して短くないです。途中でやめる理由なんて、いくらでもあった。でも代表を受けてからは特にですが、そのたびに原点に戻るんです。

あの日、地元の人が声を上げたこと。あの日集会所で交わした約束。
僕らを支え続けてくれている地元だけではない日本全国の皆さんの顔や思い。これは今もとても強い原動力です。

関わってくれる人の強さや覚悟に触れながら、桜ライン311はもちろん、私自身もこの活動に育ててもらった。だからこそ、これから先も、ただ続けるのではなく、意味を問い続けながら進んでいきたい。桜が咲くたびに、「なぜこれをやっているのか」を、ちゃんと語り続けられる団体でありたいと思っています。

「2012年春の東急百貨店さまとのチャリティ「咲かせよう。桜ライン。」から拡がりをみせた。(2018年2月28日)」

一男:
思い出に残っている支援って何かありますか。

翔馬:
いやー、もう文字に起こせないものが山ほどありますよね笑。しかも、メールにも残ってなかったりして、僕らの記憶にしかないような案件もありますし。
その当時、僕らの周りであったり、日本全国の皆さんであったりが、とても強い興味と関心を東北に、そして僕らに向けてくださっていた、そのある種の証拠でもあるのかなと思っていて。
某会さんから「17,000本、うちが全部用意するから、植える場所だけ用意しなよ」みたいなお話もいただいたこともありましたね。

失礼のないように、どうお断りするかっていうのは、本当に悩みましたよね。
当時も今もそうですけど、あくまで地元の人たちが主体だからこそ、この支援につながり、この事業の広がりにつながっているんだ、という認識があったので。特定の企業さんや特定のパートナーだけと組む団体にしなくてよかったな、とは思います。

「植樹会では支援者からの手紙や励ましを展示している。奈良の桜まつりの実行委員会さまから。(2012年11月17日)」

翔馬:
正直に言えば、そっちのほうが楽だった面もあると思います。
「17,000本、全部出します。場所だけ頑張って集めてください」って言われたら、それを受けた瞬間に、他にエネルギーを割かなくなってしまう可能性もあった。
でも僕らは、この震災の教訓を特定の誰かではなく、あらゆる人に伝えていきたい団体だった。
そういう意味で、特定の一社とだけ組むNPOにならなかったことは、振り返ると、実はとても大事なターニングポイントだったんじゃないかなと思いますね。

「studioSORAさまも初期からの支援者の一人。形を変えながら毎春チャリティを継続している。(2019年2月)」


 □組織としての移り変わり



一男:
15年前、始まった時は事務局もいなくて、本当に全員ボランタリーでやっていたところから、徐々に人が増えていった。桜ライン311を立ち上げた当時は、3つの団体が重なるようなイメージでしたよね。SAVE TAKATA(現トナリノ)、市青協(陸前高田市青年団体協議会)、難民支援協会(当時地域団体の支援プログラムを実施)。でも徐々に融合し、抜けた人もいれば、新しく加わったメンバーもいた。その流れをどう考えていますか。

「植樹会の運営には県立高田高校の生徒を中心にボランティアとして手伝ってもらった。(2013年11月19日)」

翔馬:
そこは、組織内でもきっと判断が分かれる部分だったなと思っています。
任意団体としてスタートして、法人格を取る方向が固まっていった時に、それだけに集中できる組織をつくらないと絶対に達成できない、という感覚が僕はすごく強かった。

1万7千本分の土地の許可を取って、そこに植えて、残していく。それは約15年前に決めたことです。それを本気で達成するには、それだけにエネルギーを割ける組織が必要だと思っていました。

だから、「3団体で」という形は、誰かが責任を取ってくれるよね?みたいな曖昧な構造になりかねない。純粋に一つの組織としてやった方がいいんじゃないか、という思いがありました。

その流れの中で、最初は事務局ゼロで始まり、徐々に雇用を増やして、専任でNPOを運営する形になっていった。今振り返ると、それは間違っていなかったのかなと思いますね。

 


□地域とのつながり


「広田町。植樹地の許可は地権者さんとの津波到達地点の確認から始まる。(2013年6月)」

一男:
東日本大震災当時と今とでは、地権者さんの思いも変わってきていると思います。当時、地権者さんから託された思いについて感じていることがあればお願いします。

翔馬:
震災直後に許可をくださった方々は、今よりももっと強い思いで決断されたんじゃないかと思い返すと感じますね。
ご家族を亡くしている方も多く、街はまだ瓦礫だらけで、本当に言葉にできない情景の中で、僕らが「こういうことをやりたい」と伝えた。
初期に、自発的に近い形で申し込みをしてくださった地権者さんもいました。僕らは、その方がどんな被害を受けたのか確認はしません。でもだからこそ、頭が下がる思いがあります。
土地というのは、その人だけのものではなく、代々受け継いできた財産でもある。その土地に桜を植えさせていただくというのは、本当に責任の重いことだと感じています。

「小原中学校(愛知県豊田市)から提供いただいている春と秋に咲くシキザクラ(2017年11月)」

翔馬:
講演でもお話しすることがありますが、竹駒町のある方が、「震災で生き残ってよかったと、あまり思えない」とおっしゃったことがありました。「でも生きていかないといけないとも思えるようになった。そのきっかけはあんたら桜ライン311なんだ。だから感謝してる」と。
震災をきっかけに出会った人たちとの交流が、その方にとって生きる糧になっている、と。2012年、13年当時にそういう姿を見せていただきました。

「米崎町。桜の管理作業に伺うと「お茶っこ」にお付き合いすることも。(2020年7月)」

翔馬:
本当に、尊い事業だなと思います。他人事のように「いい事業だな」と思ってしまう瞬間もある。でも同時に、それをつくる責任が自分たちにある。
嬉しい反面、身が引き締まる思いをする事業です。

始めた当時は、未来の命を救うために、という意識が強くて、やっている人たち自身がどう感じるかまでは、正直そこまで考えきれていなかったかもしれません。
でも振り返ると、人と人がつながること。支援する/されるという関係を超えたつながりが生まれたこと。それが、僕らの事業が広がっていく大きな原動力になったのは間違いないと思います。


□開始から15年の現在地


「浄土寺の満開のカワヅサクラ。年々花付きが良くなっている。(2025年4月4日)」

一男:
改めて、15年間やってきて、よかったですか。

翔馬:
やってよかったですよ。
僕が個人的に強く思っているのは、震災をただの嫌な出来事で終わらせたくない、ということなんですよね。それは人によって受け止め方が違うのも分かります。でも、あの出来事から何かを学んだり、生み出したり、そこから初めて生まれるポジティブなものをきちんと育てていくこと。
「震災があってよかった」とは決してならないけれど、「震災があったから今の自分たちがいる」と思える人が増えていく。そういう状態が、ある種、個人に落としたときの復興のかたちなんじゃないかなと思っています。
全員がそう思えるとは思いません。でも、その視点で考えると、やってよかったです。
こんなに広がるとは思いませんでしたけどね。

「浄土寺の満開のカワヅサクラ、嵩上げ工事も終盤、区画整理が行われている(2018年4月10日)」

一男:
15年活動する中で、多くの活動資金が必要でした。それでもまだ目標本数には遠く、管理や育成にもこれからお金がかかります。代表として全国からの寄附や支援と向き合ってきました。その思いを聞かせてください。

翔馬:
大変でしたね。いや、今も大変です。本当に。
正直に言うと、「この寄附はいつまで続くんだろう」「このムードでいつまで支えていただけるんだろう」と、不安と付き合ってきた15年だったなと思います。
東日本大震災に関わるNPOを少しでも知っている方なら分かると思いますが、消えていった団体もたくさんある。その中で、うちもいつどうなるか分からない状況でした。
震災直後、5年後、10年後、そして今。周囲からの興味も見え方も、寄附をする際の判断基準も、時間とともにどんどん変わっていきます。

僕らのやっていること自体は変わらない。でも、周りの価値観は変わる。その変化にどう応え続けるか、「いいな」と思ってもらい続けるか。それを考え続けてきた15年だったと思います。

植樹という事業も、震災の教訓を伝承するという営みも、どちらも息の長いものです。一瞬頑張ったからといって残るわけではなくて、連綿と続けて初めて可能性があるんだと思うんです。

だからこそ、寄附者さん、植樹会の参加者さん、講演をご依頼くださる方、地権者さん、個人の方も企業の方も、本当に多くの人と向き合い続けてきました。それは植樹でも、寄附でも、伝承でも、共通していることだと思います。

どこかで諦めなかったからこそ、資金的にも続き、植樹事業参加者10,503人、本数2,420本という実績にもつながったんだと思っています。

「コロナ禍前の植樹会の集合写真。日本全国からご参加いただいている(2016年11月19日)」

翔馬:
初期の頃の話で、今でも忘れられないことがあります。
茶封筒に1,000円を入れて送ってくださる方がいたんです。現金書留ではなく、普通の封筒に「桜ライン311様」とだけ書かれて、差出人もなくて。中には1,000円と、小さな紙の裏に手書きのメッセージが添えられている。
字面としてはきっと年配の女性の方なのかなと思っていました。

名前も分からないし、どこの方かも分からない。でも、その気持ちにどれだけ励まされたか。企業さんから大きな金額をいただくことももちろんありがたい。でも、こうした個人の方の願いに支えられているんだという実感は、今も変わりません。
その方々に応えられる団体でありたい。そう思い続けて、ここまで来たんだと思います。
桜ライン311の強みは、多くの人の共感の力だと思っています。

津波の高さを後世に伝える。それが避難の目印にもなり、自然に景色の中に溶け込んでいく。悲しみだけではなく、どこか温かさや明るさを残すアイデアであること。
桜は時間とともに育ちます。最初は小さな苗木でも、やがて大きくなり、ラインとしてはっきり見えてくる。その時間軸こそが、僕らの特徴かもしれません。
その未来に対する共感が、寄附や参加につながり、桜が育っていく。その歩みの中を、僕らは進ませてもらっている。
一つ一つの出来事と、一人一人の思いに向き合ってきたからこそ、今があるのかなと思います。

「浄土寺でライトアップされた満開のカワヅサクラ。2022年クラウドファンディングを機に設置(2023年3月31日)」


□過去と未来の両軸を見据えて


「植樹会は形は変わりつつも今も3月と11月の2シーズンで進む。(2025年11月15日)」

一男:
前代表の橋詰(琢見)と私は、比較的鎮魂志向で取り組んできたと思っています。岡本代表は早い段階から未来志向で活動していましたよね。
そのあたりの思いを聞かせてください。

翔馬:
琢見さん、一男さんが鎮魂の方向に強く向かうなら、僕まで同じ方向に行ったら団体として偏ってしまう、という感覚はありました。ほかの理事もどちらかというと過去志向に引っ張られていたところがあったので、組織としてのバランスを取ろうという意識はあったと思います。
もちろん、僕自身にも追悼の思いはあります。親しい友人も亡くしています。でも、さっき話したように、そこから何を生み出せるのか。悲しい出来事として終わらせないために何ができるのか。それが、当時の僕なりの向き合い方でした。
副代表のもう一人である自分まで鎮魂に寄りすぎると、団体全体がそこに留まってしまうかもしれない。だから、あえて未来のほうを見る役割を担っていたところはあると思います。
そして個人的にも、過去は過去でしかなくて、大事なのは今であり、これからだと思っている。歩みが続いた先で、過去がどう見えるか。そのほうが大事なんじゃないかと。

震災直後は、まだ瓦礫の撤去も終わらず、街もなく、みんな仮設住宅に住んでいた時期でした。あの状況で過去ばかりを見ていたら、前に進めなかったかもしれない。
だからこそ、未来を見ることが必要だった。そういうことだったのかなと思います。


□代表理事の交代


一男:
2013年前任の代表理事が辞職することになった時、いろんな思いが頭に浮かんだと思います。その当時の思いを教えてください。

翔馬:
いやー、もうね、マジでやめんなよって思いましたよ。まぁしょうがないことではあったのでそれはいいんですけども・・・
理事みんなでその相談をした時、副代表が僕と一男さんだったので、2人のどっちかしかできないよねっていう話になって。じゃあどっちがやるかは2人で相談してほしい、みたいな流れだったなと思います。
でも、僕からすると、今日お話ししたみたいに、琢見さんと一男さんで始めた事業だと思っているので、そんなの一男さん一択でしょ、って思っていたんですよ。
一男さんがやるのがいいじゃんって、最初は思いました。でも、集会場の外だったかな、一男さんがね、その当時……。

「当時の米崎町の倉庫にて。管理作業にいく準備中(2012年11月25日)」

一男:
震災当時で45歳。

翔馬:
そうなると46歳とか47歳ぐらいだったんでしょうか。「50歳になったら抜けるつもりでいる」と。やっぱり若い人たちが始めたものだから、若い人に継いでほしい、と。
で、「翔馬さん、お願いします」って頭を下げられたんですよ。うん。
まあ、それをされちゃ断れねえよなっていうのが、正直なところです。
でも、正直に言えば、受けた後もすごく迷いましたよ。
前任の代表は、リーダーシップとして、周りを巻き込む時に、できないことをいい意味で隠さない人でしたし、「助けてください」をとても上手に伝えられる人だった。いい意味で不器用だから、周りが思わず助けちゃう、みたいなタイプのリーダーでした。
それで言うと、僕は琢見さんみたいなリーダーシップは絶対取れないなと思っていたので。
一番怖かったのは、自分に務まるかどうかももちろんありますけど、僕が代表になって寄附が下がるんじゃないかとか、僕が代表になることで「桜ライン311、変わっちゃったよね」って言われるんじゃないか、っていうことでした。すごく怖かったです。

「高田町浄土寺。当時から一本一本育成状況を見守っていた。(2013年7月19日)」

翔馬:
だから、代表を引き受けるってなった時は、比較的消極的だった、ということになるのかなと思います。でも、琢見さんと一男さんがスタートさせたものを継ぐということであれば、自分はもともとこの2人を支えるのが、この組織における役割だと思ってやってきたので。
自分にできることはちゃんとやっておきたい、そう思って代表をお引き受けした、という感じですね。

一男:
私が脇でずっと見ていて、「岡本代表だから支援するよ」と言ってくれた支援団体がたくさんいたと思っています。その辺の思いを。

翔馬:
いやもうね、それはね、僕からすると超ありがたくて。
代表になって最初の1、2年は、自分の中でものすごく試行錯誤したなって、今思い返すと思います。前任とタイプが違う中で、どう代表像を作っていくか、リーダー像を作っていくかっていう時に、「翔馬さんが代表になったから、組織にとっていいことだと思っている」と言ってくださる企業さんがいて、人がいて。

「(私物写真)試行錯誤していた時期に背中を押してくれた松岡さんと夏美さん。こういった方が日本全国にたくさんいる(2020年1月1日)」

翔馬:
今も継続的にお付き合いいただいている方も、会社として支援が終わってしまっても今も個人として継続してくださっている方もいる。ご寄附をくださったり、ボランティアに参加してくださったり。

それは本当に、僕からすると救い、その一言ですね。
代表をやって13年目になりますけど、やっぱりその人たちの気持ちに応え続けたい。そのためにやっている感覚は、今も強くありますね。新しい寄附者さんとか参加者さんも大事だけど僕にとっての原点です。


□桜ライン311の目指してきたもの、その存在理由


「植樹地が増す中で管理手法も拡充した。草刈作業は体力のない若い苗木にとって欠かせない。(2019年9月)」

一男:
現場に出ると、天候や桜の病気、人手不足など、いろいろあります。代表としての一番の悩み、または心がけていることを教えてください。

翔馬:
僕は、現場を任せられるスタッフがいるから今こうしていられる、ってつくづく思っています。僕も一時期は現場に出ていましたし、草刈機を振っていた時期もあるんですよ。
でも、現実的に、資金集め、NPO運営で言うファンドレイジングに注力しないと寄附が止まってしまうんじゃないか、という思いがあって。現場は現場のスタッフに任せる体制になってから、もう10年近くになります。

震災から時間が経つ中で、東日本大震災に紐づくお金や関心は、どうしても右肩下がりになっていく。資金の見通しもそうですし、組織をどう維持するか、どう方向性を持つか、社会の関心の変化とどう向き合うか。
どれも簡単なことではないです。
でも、不安ばかり見ていたら代表なんてやれない。だから、下というよりは、僕らが目指しているゴールだけを見てやってきた。という感じです。

熊本地震、広島の土砂災害、能登半島地震、大船渡市の山林火災……。東日本大震災以降も、大きな災害は度々起きています。社会の関心が分散していく中で、それでも東日本大震災の教訓を伝え続ける意味は何か、という問いをずっと持っています。
震災以降に生まれてくる子供達は何も知らないですし、この街の次世代にも伝えていける団体でありたい。
東日本大震災は、「防災は誰かがやってくれるものじゃない」「いざという時は自分が行動しないと命は守れない」ということを突きつけた災害だったと思うんです。
だから、桜が咲くたびに、関わってくださる皆さんにそのことを思い出してほしい。それが僕らの役割だと思っています。

「普及啓発事業として全国での講演も実施し、来場者は累計35,000人を超える。(2025年9月5日)」

翔馬:
読んでくれている方もきっと感じているんじゃないかなと思います。
自然災害は他人事じゃないってことを。
いつどこで起きても不思議じゃない、自分が当事者になることも当然あるってことを。
だからこそより多くの人にそれを伝えたいと思っています。
私たちの悔しさはもう誰にも繰り返さないで欲しいですね。

読んでくれている方の住む街にも、ハザードマップがあるはずです。
でも、その線を本気で見つめたことはありますか?
毎日の中で、そこまで見つめる機会は多くないかもしれません。

大規模災害に巻き込まれた時に、自分は大事な人の命を守ることができるんだろうか?
その時の自分の判断が、その大切な人の生死を分けるかもしれない。
そんな視点でこれからの防災減災を捉えてほしい。


□増えていく、育っていく「桜ライン」


「高田町浄土寺。瓦礫処理は終わり、嵩上げ作業が始まり一面工事作業が広がっていた。(2015年4月14日)」

一男:
数年でポツポツだった桜ラインが、今では十数本、数十本と並ぶようになりました。そこへの思いは。

翔馬:
感慨深いですよね。
初期は大人の小指ぐらいの太さの苗木を植えていましたし、鹿に全部食べられてしまったことも多々ありました。でも植え続けて、本数が増えて、初期に植えたものは7メートルぐらいまで育って、しっかり咲いている。満開に近いものもあります。
それを見ると、本当に嬉しいですし、続けてきたことの強さ、その意味を感じますね。

「植樹会には子ども連れの姿も増えてきた。親から子どもへと災害の教訓は受け継がれていく。(2023年11月4日)」

翔馬:
桜ライン311って、過去のことを忘れないための団体でもあると思うんですけど、同時に未来をつくる団体でもありたいと思っています。
やっぱり100年後も、この桜並木を見た多くの人たちに、「震災のことを忘れないために植えた人たちがいるんだ」って思ってもらえたらいいなと。その人たちは、もう誰も災害で、特に津波で亡くならないでほしい、って願って植えたんだって。
そういう思いを受け取ってくれる人が一人でも増えてくれたらいいなと思っているので、そのために、僕らはこれからも続けていきたいなって思っています。

一男:
桜ライン311の活動は、桜を植えることは手段であって目的ではない。それをできる限り全国に伝えたい、という思いがあったと思います。15年かけて、その思いは全国に伝わったと感じていますか。

翔馬:
どうなんでしょうね。正直、よくわからないですよね笑
僕らに関わってくれたことで、防災減災の意識を持ってくれたことはカタチには見えないですもんね。

でも、伝わっている人は確実にいると思います。僕らの植樹会に定期的に何度も関わってくださっているリピーターの参加者さんや企業さんがいるわけですから。その人たちは、そこに共感があるから何度も来てくれているわけで、思いが伝わっているからこそだと思うんですよね。
それで満足かと言われると、満足しちゃいけないよね、とも思っています。もちろん、新規の方にもどんどん参加していただけたらいいなと思っています。
植樹会は、関東圏や名古屋周辺、関西周辺の方の割合が多いので、こっちに来るのは大変だと思うんで
す。でも、その距離を超える価値がここにはあるよね、って思ってくれる人が増えていったらいい。

「急傾斜地や植替え作業を行う理事植樹会には、理事だけではなく正会員やその家族も参加する。(2013年3月17日)」

翔馬:
今、年間で修学旅行も含めて全国から700人ぐらいの方に参加していただいていますけど、これが1000人、1500人と増えていく団体になれば、寄附や講演の機会など、他の広がりにもつながっていくんじゃないかなと思っています。

震災から15年。今年ちょうど3月11日で、まぁ5年の時もそうでしたし、10年の時もそうでしたけど、ひとつの時間としての区切りではある。でも、その日になったから何かが変わるわけではないな、とは思うんです。

ただ一方で、この15年を継続できてきたことは、僕らのひとつの成果だとも思いますし、それは僕たちだけで頑張ったからではなくて、やっぱり日本全国の植樹会の参加者さんがいて、寄附者さんがいて、本当に皆さんのおかげだったなと思っています。

じゃあ、今までの15年と、これからの15年はどうなるのか。たぶん、根っこの部分は変わらないと思うんですよ。共感を持ってくださっている方と、これからも歩み続けていく。それが僕らの原動力であり、ある種の誇りだと思うので、そこは変わらない。

でも、その共感してくれる皆さんの力を、どうやってより集めていく団体をつくっていくか。そこが問われているんだと思います。
この15年というタイミングでもあり、ちょうど現実的に達成可能なゴールを再設定しています。今までに植樹の許可をいただいた土地の距離や、植樹が出来ない可能性の高い土地の積算など、もう少し具体的かつ実行可能性がある数値目標です。
まだきっと誤差もあるけれど残り69kmくらいという数字が見えてきました。
これからさらに風化も進んでいくし、他の大規模災害も発生していく。だからこそ、もっと訴求力を持って、伝えられる人を増やしていくことが大事だと思っています。

「高田町寒風。植えてから日は浅くとも存在感ある花を咲かせるエドヒガンザクラ(2024年4月10日)」

翔馬:
寄附という形でもいいし、ボランティアでもいい。桜を見に来る、でも全然いいと思うんです。僕らに興味を持ってくれて、桜を通してつながっていく。

春、もし陸前高田を訪れたら、読んでくれている方はどの高さまで桜が並んでいるか、きっと目で追うはず。そこに特別な知識や覚悟がなくても大丈夫です。ただ桜を見に来ることも、立派な関わり方です。

ちょうど15年というタイミングでもあるし、改めてマンスリーサポーターとして一緒に歩んでくれる人が増えて欲しいと思っていて、初めてのマンスリーサポーターのキャンペーンも実施中です。
仲間になってくれるその人たちと一緒に、自然災害で命が失われない未来をつくっていきたい。

もしあなたが、いざという時に大切な人を守れるだろうかと考えたことがあるなら——
是非仲間になってください。

「植樹後に参加者をお見送りするのも桜ライン311の特徴。また半年後に!といってくれる方も多数いる。つながりに桜ライン311は生かされている(2025年11月15日)」

 


 

高田町。植樹地への配達を待つ苗木。当時は1年生の苗も多く、全国からの苗木の受け入れも行っていた。(2012年3月9日)」

 

15年前、ゼロから始まった一本の桜。
今では2,420本の桜が、まちに根を張っています。
あの茶封筒の1,000円も、地権者さんの「そのきっかけはあんたら桜ライン311なんだ。だから感謝してる」も、岡本の迷いも—
もし少しでも心が動いたなら

その共感が、次の一本を育てる力になります。
桜ライン311は、これからも咲き続けます。
あなたとともに。

次の15年へ 是非、ご一緒ください。

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